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2025年02月05日 Zenoaq Story

【Story】困難を乗り越えロングセラー製品となった「鉱塩」の誕生秘話。

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写真:牛が鉱塩をなめている様子

ZENOAQ Story(ゼノアック ストーリー)では、月に1回オリジナルの読み物記事を配信し、弊社に関わる動物やヒトなどのストーリーをお伝えします。

ありがとうございます。

 かつて、「霧酔い病」という謎の病気がありました。
鳥取と島根にまたがる大山(だいせん)の丘陵地帯を、朝日と霧が包みます。時間が過ぎ、霧がスーッと消えると、数頭の牛が死んでいるのです。科学的な調査の結果、コバルト不足が原因であることが判明し、塩とミネラルを補給することで防げることがわかりました。

1955年、ゼノアックの創業者である福井貞一(さだかず/以下、社主)は、東大農学部の教授である臼井和哉先生に塩とミネラルの固形化研究を勧められました。固形化には、牛が塩を常時供給できることと、ミネラル不足を補えるという二つのメリットがありました。翌年3月、社主は塩の固形化に挑戦するため、まずは農家から菜種油の搾油機を借りてきました。塩をどう固めるのか、わずか4cm四方の固形化の研究に半年が費やされました。臼井先生らのアドバイスで必要なミネラル分も調合し、製品名は「鉱塩」と決定。製品化に向けて5キロのブロックづくりに乗り出しました。

当時、塩の加工には専売公社(塩の専売権を持っていた公共企業体。現在のJT)の許可が必要でした。それを知った社主は、すぐに製造許可の申請を提出します。ところが、専売公社もミネラル入り固形塩を研究中で、民間企業に製造させるつもりはないという絶望的な回答をしてきたのです。しかし、ここまでの研究に1年半近く費やしていた社主は、諦めるわけにはいきません。臼井先生の助けを借りて、専売公社中央研究所の杉二郎部長を訪問しました。ゼノアックの研究が一歩先に進んでいることを理解した杉部長は、申請が社内で許可されるよう努力すると約束してくれました。

1958年、鉱塩の製造が正式に認可され、本格的な固形化作業が始まりました。製造機械を購入したものの、1個当たりの製造に5分もかかりました。スピードアップのため更なる設備投資を行いますが、相次ぐ故障。油まみれになりながら社員と修理を繰り返しました。そんな困難を乗り越え、220日に初出荷を迎えます。雪景色の中、トラックは「鉱塩」と染め抜いた垂れ幕を付け、全従業員の拍手に包まれて出発しました。

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写真:鉱塩の初出荷を拍手で見送る

初出荷の喜びもつかの間、今度は苦情が飛び込んできました。固形化した鉱塩が崩れたというのです。原因は牛のヨダレ。牛のヨダレによる水分によって鉱塩が崩れてしまい、出荷した500トンが次々と返品されました。社主は製造を中止し、専売公社の杉部長に相談します。専売公社の研究陣の協力を得て特殊な方法を導入したことで、5か月後にようやく解決しました。翌年には古い建物を組み立て直し、新たな製造機械を備えた専用工場が完成。名実ともに本格的な鉱塩の製造が始まりました。

製造の課題をクリアしたものの、販売面でも大きな壁が立ちはだかります。鉱塩の販売には専売法の制約があり、販売店が限られていたのです。そこで社主は宣伝活動に力を入れました。カラフルなイラストの入った宣伝カーを走らせ、有線放送用のCMソング(作詞は野坂昭如さん、作曲は桜井順さん、歌は楠木トシエさん、コーラスはポニージャックス)を作成するなどして販売を促進しました。

それでも、牛に塩をなめさせることが一般的でなかった時代、販売は伸び悩みました。ある時、霧酔い病を研究する京都大学の上坂教授から、大山の放牧地一体に鉱塩を置いてほしいと依頼を受けました。霧酔い病の原因がコバルト不足と裏付けるためでした。放牧地に鉱塩が散らばると、牛は頻繁になめました。中にはいつまでもなめている牛もいました。しばらくすると霧酔い病は全く起きなくなり、上坂教授の理論が実証されました。それから各地にあった同様の病気を解決することで、徐々に鉱塩の存在価値が認められるようになりました。発売以来、10年後のことでした。

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写真:1970年代の鉱塩のラインナップ

今では、ヨダレがかかっても、雨が降っても崩れることなく、牛がなめたところだけきれいに溶ける製法を確立しています。この特殊製法で特許を取得した鉱塩シリーズは、畜産業界に広く認められるロングセラー製品となりました。こうして様々な努力は結実し、固形化に頭を悩ませた日々は遠い昔の思い出話になったのでした。

ありがとうございました。

※福島民友新聞 連載「私の半生」(1989年)より